絵本を読みたいお年頃。

パンダをこよなく愛するあの日の少女が徒然なるままに書く絵本のレビュー。

【レビューno.1】「ぐりとぐらとすみれちゃん」~愛がみがく「生」~

こんにちは、tommyです。読んだ絵本について、レビューをまとめていきたいと思います。その第一弾は大好きな『ぐりとぐらシリーズ』から「ぐりとぐらとすみれちゃん」。ぐりとぐらでは珍しい「人間の女の子」が出てくるあのお話です。

ぐりとぐらとすみれちゃん』

あらすじ

ある日、ぐりとぐらのもとへ大きなリュックを背負った女の子がやってきます。その子のなまえは「すみれちゃん」。遠い遠いすみれはらっぱからのお客様でした。
そのリュックの中には大きなかぼちゃ。ちいさな彼女は大きなかぼちゃを精一杯投げて割ります。そして割れたかぼちゃを森のみんなと仲良く食べたのでした。

”すみれちゃん”という女の子

すみれちゃんはモデルがいるそうです。それは4歳の幼い女の子。

しかし彼女は、この作品を手に取ることも声に出して読むことはありませんでした。

作者である中川李枝子さんとすみれちゃんの出会いは、すみれのご両親からのお手紙を通してでした。そのお手紙が李枝子さんの手に届く4か月前、すみれちゃんは脳腫瘍で天国へのぼられたそうです。

お手紙にはその事実と、生前すみれちゃんが「ぐりとぐら」を大好きであったということがつづられ、「娘に幸せな時間を与えてくださって…」と、ご両親から感謝の言葉がそれられていたそうです。

そこから李枝子さんとすみれちゃんのお母さまとの文通が始まり、そしてこの「ぐりとぐらとすみれちゃん」が完成したそうです。すみれちゃんの絵は、生前の元気な姿の写真から。百合子さんが描いたすみれちゃんは、お母さまも驚くほどそっくりだそうです。

はじめてこの作品を目にしたとき、まさに「人間の女の子がいる!」と感じました。ものすごく普通な感想ですが、悔しいくらい正直な感想です。

ぐりとぐらといえば「人間」という人間はあまり出てきません。「ぐりとぐらのかいすいよく」で出てくる”うみぼうず”も、「ぐりとぐらのクリスマス」で出てくる”サンタクロース”も、少しちがう。形は人間だけれど、でもどこか人間ではない存在なわけです。

しかし、「すみれちゃん」は間違いなく人間の女の子でした。どこから見ても、人間の、4歳の、元気いっぱいで力持ちの、そしてとっても優しい女の子なのです。考えてみれば、お母さまが「そっくりだ」と驚かれるほどの描かれ方なのですから、それは人間の女の子に見えて当然ですね。

ぐりとぐらとすみれちゃん」から見る「生」

読み返すたびに「すみれちゃんはどんな子だったのだろう」とおもいを馳せていた「ぐりとぐらとすみれちゃん」。ですからすみれちゃんが脳腫瘍を患っていらしたこと、そして短い生涯を閉じていらしたことを知ったときは非常に驚きと、それとともに大きなショックをうけました。

けれども、不思議なことに「ぐりとぐら」に登場するすみれちゃんは、その寂しさや驚きやショックを感じさせません。それどころか、ずっといきいきと、そして楽しそうな表情を浮かべます。会ったこともない私に「ねえ、一緒にかぼちゃ食べる? 」だなんて、まるで声をかけてくれているのではないかと思うほどの「生」の息吹を感じます。これはきっと、私だけではないでしょう。

ではなぜこれまでに「生」が強く感じられるのでしょうか。わたしは、その「生」の背景に2つの愛の存在が影響していると考えています。

すみれちゃんの「生」を磨き続ける2つの愛

まず、すみれちゃんのぐりとぐらに対する愛。元気な時も辛い時も、彼女はぐりとぐらと一緒だったといいます。ごはんが喉を通らない時でさえ、ぐりとぐらに登場する料理のシーンを見ては「これにする」とごはんを選んでいたそうです。それほどまでに、ぐりとぐらが大好きだったのですね。

次に、ご両親からすみれちゃんへの愛です。尊い親子の愛と言い換えられるでしょう。すみれちゃんの「好きなもの」をよく知って、そして彼女とぐりとぐらを繋いだのは紛れもなくご両親です。この背景に娘を思う気持ちがあることは、考えるまでもないでしょう。そして実際に、その気持ちが行動となり、形になっているのだと思います。

この愛が、真実のものであるからこそ、李枝子さん百合子さん姉妹の手によって描かれたすみれちゃんが、こんなにもイキイキと、そして楽しそうに存在しているように思います。(ちょっと、当たり前な結論になってしまったのですがお許しください。)

まとめ

子どもの「生」というのは、とてもキラキラして見えるものだと思っています。例えばグラウンドを駆け回る姿、鉄棒で逆上がりにチャレンジする顔、一生懸命色を組み合わせて向き合うお絵かき中の横顔……。そしてそれは「元気」であることが前提のように語られてしまします。私も、この作品にであうまではそうでした。

しかし、そのキラキラとして見える子どもの「生」は”今、元気である”ことだけに魅せられるものではないように感じます。今はもちろんのこと、いままでも、これからもその「生」というのは記憶の続く限り生き続けるのだと感じました。

そして、生き続ける「生」を磨き続ける存在が「愛」でしょう。心からの愛が、そのイキイキと続く「生」をさらに美しい存在にし、形にします。

きっと私もそうやって、「生」を感じてもらっていたのだろうなと、ちょっと期待を込めて、今日はここまでにします。