絵本を読みたいお年頃。

パンダをこよなく愛するあの日の少女が徒然なるままに書く絵本のレビュー。

ちひろの世界が、静岡に

いわさきちひろさんといえば、繊細なタッチや淡い色遣いで描かれた子供たちの絵が印象的な画家です。我が家にも幼いころから毎年、決まっていわさきちひろさんさんのカレンダーを飾っており、なじみ深い存在です。

そんないわさきちひろさんの「ちひろ美術館展」が静岡市美術館にて開催されているとのこと。期間は11月23日まで。

ぜひとも一度、足を運びたいものです。

ちひろ美術館は常設で、東京と長野県安曇野にもありますから、そちらにも足を運ばなければ。(ずっと行きたいといって、行けていません)

 

日本の代表画家・いわさきちひろ

より興味と知識を深めていきたいところです。

www.chunichi.co.jp

英語にふれる環境づくりを!湘南が生み出す子どものための無料英語図書館

寝る前の時間に、絵本に関するニュースを検索することが日課になってきています(まだ3日目)。今夜気になったニュースはこちら。

 

www.value-press.com


 『地域の子ども達が気軽に英語に触れることのできる無料図書館を設立するプロジェクト』だそうです。湘南・茅ヶ崎で英会話教室を運営する湘南アルプスイングリッシュスクールさんが取り組みを始めたとのこと。

事業内容は、以下の引用文の通りです。

本プロジェクトでは、授業が行われない時間を地域の住民の方に無償で開放し、洋書が読める図書館や英語に触れることのできる交流スペースとして提供てまいりたいと考えております。具体的には赤ちゃん連れのお母様にいらしていただいて、英語の絵本の読み聞かせを行ったり、夏休みなど子どもが学校のない時には英語のゲームを行うなどして、地域の方の憩いの場となるような空間を提供する予定です。

 とてもうらやましく、理想的な環境であると思います。中でも英語の早期教育を行いたいお母さま方にとっては、とてもうれしい環境なのではないでしょうか。

 英語の早期教育といえば、英会話のイーオンが今年の初め(2015年3月)に行った「子どもの英語学習に関する意識調査2015」によると、小学校英語教育の早期化について9割の方が肯定意見を示しているとのことです。もちろん、日本人の生まれ育つ環境に英語を早期から導入することに対して反対する方もいらっしゃると思いますが、多くの方が日本のグローバル社会化に伴い英語の早期教育を望む傾向が年々強まっていることがわかります。

ちなみに、わたし個人の意見としては、英語の早期教育に対して肯定はしきれません。というのは、「英語教育」と称するからには日常生活すべてを英語化しなければ身につかないだろうと考えるからです。「英語教育の早期化」に伴い、子供の日常生活のうち、例えば8:2で英語に触れる機会が1年以上続くというのであれば賛成できるのですが、「週に何度か数十分の英語」ではおそらく物足りない結果となる気がします。

ではどうして「肯定しきれない」といったあいまいな表明をするかといいますと、「英語に早期から慣れること」に対しては強く肯定意見を持っているためです。「英語教育の早期化」と同じなのではないかと自分でも突っ込みたくなるのですが、両者には大きな違いがあると考えています。

「英語教育の早期化」と「英語に早期から慣れること」の大きな違いは、勉強であるか娯楽であるかにあると考えます。現在の教育界が目指す前者は、いわゆる「勉強」としての英語であり、教科化されるからにはテストなどによる点数化が行われます。学ぶべきことを強化化し、評価するこの方法は、従来の日本が行ってきた教育方法であり、我々にとってもなじみ深いものです。しかし現在の日本教育は、従来のままではアウトプットのできない社会になるとして、そうしたテストに準ずる暗記型学習を排除しようとする段階にあるのです。すると、この「英語教育の早期化」では教科化が前提ですので矛盾が生じます。このことから「英語教育の早期化」が果たしてグローバル社会に役立つものなのか・・・という疑問も生じてくるのです。

そこで後者を考えてみます。後者は「英語に早期から慣れること」、すなわちあらゆる方法で英語にかかわりを持つ環境のことを指します。娯楽としての英語である、と述べれば前者との差別化が図れるのではないでしょうか。幼いころから「第二言語」としての英語にふれ、楽しいと感じる機会が増えると「英語」に対する大きな隔たりである苦手意識が少なくなると考えられます。この結果、子供が自ら英語に興味をもち、手を伸ばすことができるようになればより英語の学習に力が入るのではないでしょうか。

結論を述べると、私の考える日本の英語教育に必要なことは、早期から英語に慣れる環境づくりに力を注ぐことであるということです。
 

最近学んだことをもとに、長々と書いてしまいました。
初めの話題にもどるりますが、10月8日から始まった『地域の子ども達が気軽に英語に触れることのできる無料図書館を設立するプロジェクト』に対して、私はとてもポジティブな印象を受けました。ぜひ一度、主催されている方にお話を伺いたいと、こっそり考えながら今後の活動を応援させていただきたいと思います。 

【レビューno.2】「ママが死ぬ」ってなんだろう。たった5分の作品が生む、きっと忘れられない「笑って、こらえて」

 『ママがおばけになっちゃった!』
絵本作家・のぶみさんが手掛けた最新作品。Huffingtonpostで見つけたこんな記事、ふと先日大都会の本屋さんで立ち読みをして時のことを思い出したのでまとめておきます。 

Amazonランキング1位 「ママが死んじゃう絵本」なのにママたちから大人気のわけ | QREATORS
2015/10/09 19:08

子どもにとって 「ダイキライ」な絵本

「これは子どもが大キライな絵本なんです」

作者であるのぶみさんは、インタビューでそう述べています。絵本と言えば、一般的には子どものためのものと考えられるでしょうから、「子どもに嫌われては元も子もないのでは? 」と思いたくなってしまいます。

しかし、内容はといえば確かに「子どもにとって、一番考えたくないこと」がテーマの絵本。だって、「ママが死んじゃう」のですからね。

もう20年も生きた私でさえ、やはり「ママが死んじゃったら」なんて考えるのは嫌です。怖くて、そもそも想像できなくて、できれば遠いいつかの話であってほしいわけです。

ましてやこれを読むのは幼い子どもたちですから、子どもながらにも相当のインパクトがあるのではないかと思います。

でも、それは「ママ」にとっても同じくらい怖いことなのかもしれません。私には経験がありませんが、でもきっと、この作品をお膝の上で読み聞かせているころには「この子のために生きなきゃ」って強く強く思っている頃なのではないかと思うのです。

そんな時期に、「ママが死んじゃう」なんていうテーマが胸に突き刺さらないことはないでしょう。

それでも、「ママ」が「子ども」に読むっていうこと

記事によると、のぶみさんはこの作品を1000人に読み聞かせて気づいたことがあるそうです。

それは、「ママへの愛」。この作品を読んでいる約5分の間に泣いてしまったり、逃げてしまったりと、最後まで聞けなかった子どもたちのその行動は「ママへの愛情の裏返し」だということのようです。

そしてのぶみさんはこう続けます。

この本で改めてママが大好きだと感じるんだと思います。だから読み終わった後、ママにくっついて離れなくなったりします。」

きっとこの作品に出合う頃は「ママ」という存在を意識し始めて、お友達のママを知って、やっと「この人こそが自分のママだ」ということがわかる頃。そしていつでもそばにいることが当たり前になってきた頃。

でもほんとはね、「当たり前」じゃないんだよ。君の大好きなママが、毎日いつでも君のそばにいてくれることは、とっても幸せなことなんだよ。君は幸せ者だね! そんなことをこの作品は子どもたちに気づかせるのではないでしょうか。

そして同時に、ママたちがこの作品をお子さんたちに読み聞かせる頃は、お子さんたちが飛び跳ねたり転げまわったり、走り回ったり泥んこになることが多くなる頃なのではないでしょうか。

そんな忙しくて大変な毎日かと思いますが、「あなたがあなたの大好きなお子さんの隣に毎日いられて、笑ったり怒ったり心配したりできることは、とっても幸せなことなんですよ」なんてことを、読んでいるママたちに感じさせるのかもしれません。

こんなインパクトの強い絵本を、「ママ」が「子ども」に読み聞かせるその時間や空間は、「愛情」を伝え合う、そして認識しあうためにあるのかもしれませんね。

とある日の、とある大都会の本屋さんで

先日、私はとある大都会の本屋さんで、話題になっていたこの作品を手にしました。

タイトルからして、涙もろい私には絶対に読めない作品だと予想をつけていたものの、好奇心に負けて読んだわけです。しかし案外、重くなくユーモアの続く作品でした。

けれども、その子どもらしい笑いの中に、切なさと、脆さと、強い優しさを感じるのです。感動って、こんなに簡単にするもの?(笑) と、なぜか少し悔しくなりました。

読んでいたそのわずかな時間で、笑って、涙をこらえて、また笑って、気づいたころにはそれを人に話していたのです。今日こんなお話に出会ったんだよ、と。その時に話した内容や感想は、今もほとんどかわりません。ただやはり、もう一回読んでみたい。もう一回読んだら、きっと違うところに目が行くと思うから。もう一度読んでみたいのです。

もう一度読みたくなる絵本というもの

僕は、「もう1回読んで!」と子どもがせがんで持ってくるような絵本がいい絵本だと思っていて、そういう本を描いていきたい。』

のぶみさんはインタビューでそう語ります。

私もその通りだと思うのです。大体名作だといわれる作品は、長いものであれ、短いものであれ、喜劇であれ悲劇であれ、何年か経った頃に「あの本、久しぶりに読みたい」と思ってしまいます。

この作品には、きっと今より大人になった私が「そういえばあの作品読みたい」っと思っているだろうなあというのが容易に思いつくんですよね(笑) それがいつのことだかはわかりませんが、きっと、ふと思い返して読みたくなるんだと思います。

絵本というと、子供向けの短くて絵の多い作品というイメージがありますが、良い作品に対する「また読みたい」という気持ちの対象外ではないでしょう。特にこの作品は、おそらく読むたびに見えるところが違うんだと思います。だからこそ、想像ができる。

きっとまた読みたい、
そして、多くの方に読んでほしい作品です。
できればママになったばかりの方に。同世代のママさんに。

素敵な作品でした。

ソフトブック*メモ

 

 ”3か月からの絵本”、としてのソフトブック。
ちっちゃなころ、私もすごく好きだったソフトブック、なのにまったく頭になかった・・・。

勉強中の絵本は、2~8歳ころまでを対象にしたものだけれど、愛着形成や幼児発達をメインに考えていくのなら、乳児期の絵本にも目を向けたほうがいいのかもしれない。そんなことをまなびました。

想像力を育む知育絵本を子どもと読もう!厳選3冊|cozre[コズレ] ママパパの子育てをもっと楽しく

初期絵本としてのソフトブック。

2015/10/09 18:38

 

「ぼくの夏休み」みたいだったあのころの夏の話

つい先日、「tommyの夏休み、『ぼくの夏休み』みたいなんだね! 」と、尊敬する先輩ライターさんから言われた。地元で過ごした子供のころの話をした時だった。

放課後は田んぼをかけてバッタ取り、公園ではセミ取り、縁側にもならないような戸口でのスイカ早食い、暑いねえといいながら涼む風鈴の下……

わたしの地元は、「地元」という言葉がぴったりなほどの田舎町だった。こんな光景は決して珍しくない。夏といえばかき氷に祭り、スイカ割に盆踊り、海水浴に川遊び、虫取りに花火大会だった。

しかし、お決まりなのは子どもだけじゃない。大人もそうだった。

汗だくの法被にねじりハチマキ、「お嬢ちゃん、どうだい? 」が名セリフの屋台のおじちゃん、そして何かとおいしそうに注がれる紙コップの生ビール。夏の大人といえば、女性も男性もこんな感じだった。当時はわからなかったけれど、こうして思い返すと、なかなか粋だ。

そんな、まさに「ぼくの夏休み」的な子どものころの夏景色は、子ども心ながらに気に入っていたのかもしれない。だからこそ、いまだって鮮明に、思い出される。

今はもう、珍しい風景だからこそ、思い出される。

たった何年か前の光景が今はもう、珍しい。
わたしも偉くなったものだ、と勘違いをしてみる。

「あの夏はもう、戻らないのかな」と、いつかの幼心を頼りに感じるノスタルジーは、いつまで続くのだろうか。

今年も、夏が終わる。

【レビューno.1】「ぐりとぐらとすみれちゃん」~愛がみがく「生」~

こんにちは、tommyです。読んだ絵本について、レビューをまとめていきたいと思います。その第一弾は大好きな『ぐりとぐらシリーズ』から「ぐりとぐらとすみれちゃん」。ぐりとぐらでは珍しい「人間の女の子」が出てくるあのお話です。

ぐりとぐらとすみれちゃん』

あらすじ

ある日、ぐりとぐらのもとへ大きなリュックを背負った女の子がやってきます。その子のなまえは「すみれちゃん」。遠い遠いすみれはらっぱからのお客様でした。
そのリュックの中には大きなかぼちゃ。ちいさな彼女は大きなかぼちゃを精一杯投げて割ります。そして割れたかぼちゃを森のみんなと仲良く食べたのでした。

”すみれちゃん”という女の子

すみれちゃんはモデルがいるそうです。それは4歳の幼い女の子。

しかし彼女は、この作品を手に取ることも声に出して読むことはありませんでした。

作者である中川李枝子さんとすみれちゃんの出会いは、すみれのご両親からのお手紙を通してでした。そのお手紙が李枝子さんの手に届く4か月前、すみれちゃんは脳腫瘍で天国へのぼられたそうです。

お手紙にはその事実と、生前すみれちゃんが「ぐりとぐら」を大好きであったということがつづられ、「娘に幸せな時間を与えてくださって…」と、ご両親から感謝の言葉がそれられていたそうです。

そこから李枝子さんとすみれちゃんのお母さまとの文通が始まり、そしてこの「ぐりとぐらとすみれちゃん」が完成したそうです。すみれちゃんの絵は、生前の元気な姿の写真から。百合子さんが描いたすみれちゃんは、お母さまも驚くほどそっくりだそうです。

はじめてこの作品を目にしたとき、まさに「人間の女の子がいる!」と感じました。ものすごく普通な感想ですが、悔しいくらい正直な感想です。

ぐりとぐらといえば「人間」という人間はあまり出てきません。「ぐりとぐらのかいすいよく」で出てくる”うみぼうず”も、「ぐりとぐらのクリスマス」で出てくる”サンタクロース”も、少しちがう。形は人間だけれど、でもどこか人間ではない存在なわけです。

しかし、「すみれちゃん」は間違いなく人間の女の子でした。どこから見ても、人間の、4歳の、元気いっぱいで力持ちの、そしてとっても優しい女の子なのです。考えてみれば、お母さまが「そっくりだ」と驚かれるほどの描かれ方なのですから、それは人間の女の子に見えて当然ですね。

ぐりとぐらとすみれちゃん」から見る「生」

読み返すたびに「すみれちゃんはどんな子だったのだろう」とおもいを馳せていた「ぐりとぐらとすみれちゃん」。ですからすみれちゃんが脳腫瘍を患っていらしたこと、そして短い生涯を閉じていらしたことを知ったときは非常に驚きと、それとともに大きなショックをうけました。

けれども、不思議なことに「ぐりとぐら」に登場するすみれちゃんは、その寂しさや驚きやショックを感じさせません。それどころか、ずっといきいきと、そして楽しそうな表情を浮かべます。会ったこともない私に「ねえ、一緒にかぼちゃ食べる? 」だなんて、まるで声をかけてくれているのではないかと思うほどの「生」の息吹を感じます。これはきっと、私だけではないでしょう。

ではなぜこれまでに「生」が強く感じられるのでしょうか。わたしは、その「生」の背景に2つの愛の存在が影響していると考えています。

すみれちゃんの「生」を磨き続ける2つの愛

まず、すみれちゃんのぐりとぐらに対する愛。元気な時も辛い時も、彼女はぐりとぐらと一緒だったといいます。ごはんが喉を通らない時でさえ、ぐりとぐらに登場する料理のシーンを見ては「これにする」とごはんを選んでいたそうです。それほどまでに、ぐりとぐらが大好きだったのですね。

次に、ご両親からすみれちゃんへの愛です。尊い親子の愛と言い換えられるでしょう。すみれちゃんの「好きなもの」をよく知って、そして彼女とぐりとぐらを繋いだのは紛れもなくご両親です。この背景に娘を思う気持ちがあることは、考えるまでもないでしょう。そして実際に、その気持ちが行動となり、形になっているのだと思います。

この愛が、真実のものであるからこそ、李枝子さん百合子さん姉妹の手によって描かれたすみれちゃんが、こんなにもイキイキと、そして楽しそうに存在しているように思います。(ちょっと、当たり前な結論になってしまったのですがお許しください。)

まとめ

子どもの「生」というのは、とてもキラキラして見えるものだと思っています。例えばグラウンドを駆け回る姿、鉄棒で逆上がりにチャレンジする顔、一生懸命色を組み合わせて向き合うお絵かき中の横顔……。そしてそれは「元気」であることが前提のように語られてしまします。私も、この作品にであうまではそうでした。

しかし、そのキラキラとして見える子どもの「生」は”今、元気である”ことだけに魅せられるものではないように感じます。今はもちろんのこと、いままでも、これからもその「生」というのは記憶の続く限り生き続けるのだと感じました。

そして、生き続ける「生」を磨き続ける存在が「愛」でしょう。心からの愛が、そのイキイキと続く「生」をさらに美しい存在にし、形にします。

きっと私もそうやって、「生」を感じてもらっていたのだろうなと、ちょっと期待を込めて、今日はここまでにします。

 

絵本が読みたいお年頃。

「よい子は9時におねんねよ~」

絵本にぴったりな、そんな言葉は
とおいとおいあの日の思い出です。

 

ようこそ!そしてはじめまして。

 

ここでは読んだ絵本の感想だったり、図書館で見た光景の話だったり、ふらっと立ち寄った古本屋さんの懐かしい香りだったり、そんなところを綴ってきたいと思います。

たのしみ。

ちょっとドキドキ。

おすすすめの絵本やお話があったら教えてください。
それではどうぞよろしくお願いします!